今日は授業参観で学校に行きました。
次男はハーフ成人式で10年後の自分について語り、長男は卒業後の展望や将来の夢を語っていました。
昨日突然、来週から学校休校…のニュースで、困惑を隠せない親。
実質今日で小学校生活が終わることに同じく戸惑う子。
ニュースは表面的で、現実はこんなにも重いのか…と、切なさをぶつける先もなく、外を眺めて泣きたくなった。
まっすぐ目を開いて潤んだまま澄んだ声で歌う、実質卒業式のような6年生の歌声が胸に一層の切なさと、怒りと、どうしようもない気持ちはなかなか一言にはまとまらない。終わり良ければすべて良し…の反対ってなんだろう。終わり無ければいとかなし…という気分です。
政府のバカ、世の中のバカ、ウィルスのバカ!と叫んで回し蹴りしたい気持ちを「大人ヅラ」して白いマスクで隠すしかなかった。
スポーツなどの練習もしばらく中止だそうだ。
実のところ、わたしは有事に備えて独立した。実家の父に何かあった時や、息子らの危機、震災や自然災害などの「いつか」は「今」と思って生きたいと願って形にした。だからきっと明日からも変わらず…を、しようと思えばできる状況ではある。
ただ、社会的に一部大手術…をして、何事もないわけがない。子どもという社会の宝を、毎日家に置きっぱなしにできないでしょう?
悲観も楽観もせず、いかにいつも通り生きるかを突きつけられたな…と正直思った。社会の転換点はいつも唐突にみえる。
子にも親にも、この1カ月は長い。
全員同じ進学先の小さな町でも息が吸ったまま止まった感覚がある。社会的な小さな死…と書くと大げさかもしれないけれど、日常がリモコンで停止した感じがした。
ウィルスという言葉にまけないように…と、笑ったり大丈夫と言ったり平気なフリをしていたけれど、卒業式がないことも、卒業する準備がないまま学校の荷物をぜんぶ車に詰めて帰ることも、祝う会で準備してきたことも、悲しくて切なくて悔しくて泣ける…とちょっとだけグチらせてください。まあ私なぞ大した尽力はできてないわけですが…。
イベント中止と言ったって、イベントやる人も生活賭けてんだよ…!というニュアンスの記事も読みましたが、こんな強制終了ボタン押されて、子どもの節目に立てないまま、経済活動は続けましょうか…みたいな雰囲気に私は捉えてしまったんですが、それができる進んだ企業以外はどうするんでしょう?
有事に強い会社は本当に強い会社とは思いますが、感情の追いつかない決定をしたことに、こんなにも傷ついている自分は、感情的にはこの世情に罹患したようなものだろうな…と思う。気持ちが追いつかない企業だって少なくはないと思う。
考えすぎないように…という言葉とともに、数年前の東日本、そして日本全体の鉛のような鈍い重さが再び襲ってきて、おそらく最善の1つは「何も考えないこと」ともわかる。わかるとできるは違う。朝時間をとって長めに瞑想をしても、これだけの感情が吐くように出てくる。まだなにもできちゃいない。
今日はしっかり泣いて、明日からも何事もなかったかのようにおはようございますと笑おう。わたしはいつまで笑えるのだろうか。生きている限りはなるべく笑って、お日さまみたいに死にたいけれど、人間そんなに簡単じゃないのよね。感情出さずにずっと笑ってる人なんて、キライ。
はー、たくさん書いちゃった。
読んでくださった方、ごめんなさい。ありがとう。そしておやすみなさい🌙
写真は持ち帰ってきた、次男の絵。