今日の対本先生の講座は
1つ前の記事でも想像していた以上に重く深いテーマでした。

「言葉を超えたところにある何か」を語って下さる壮大なお題で、同じく1つ前の記事で「死んだ時に読んでねノート(家族宛)」にあれこれ書いてるくせに、この講座を聴かなきゃ死んでも死ねない!と自分の本能が騒いでました。嗚呼、生きてるって素晴らしい…✨

ちょっと話は飛びまして、昨日ふと、つい最近まで庭に咲いていた甘い香りのジャスミンが気づいたら散って葉っぱだけになっていたので生け垣の奥をそっと覗いてみました。

既に花も香りもないのに、黒い深緑の葉に囲まれて深呼吸をしたら、ふとやわらかく頭を撫でられたような母の気配と走馬灯のような思い出が交錯して朝から涙が止まらず、失った人の記憶は音も予告もなく襲ってくるものだなと追憶の混ざったせつなさに、刹那という言葉の前と後ろに連なる壮大な時間が凝縮されたような、言葉にならないこの感覚はどう表現したらよいのだろうと、とりとめもないことを思いながら空に浮かぶ雲を眺めてゆっくり息を吸い、ため息に似た息を吐きました。せめて自分が生きている限り、先代からの命のメッセージを次の世代に伝えてゆきたいものです。

大切な人の死は、時間が経つとともに形を変えて心に触れる非常に繊細な感覚だと個人的に思います。

そんな昨日があり、今日は母の看取りを思い出しながら話を聞かせていただきました。

前半は心不全や脳卒中の話も丁寧にしてくださり、一過性とはいえ脳虚血で半身全く動かなくなった経験をした身としては他人事ではないと思いながらメモを取ってました。ほんとにどうにもならないんですよねぇ。言葉を発することすら難しくなります。元気に生きてるって本当に奇跡です。生きててラッキー、走れてラッキー。色々丸めてありがとう🙏

脳腫瘍の方のMRIを見せてくださったり、この腫瘍って一体なんなんだろうと、詳しく調べて出したらまたキリが無いのでしょうけれど、闘病中の知人や恩師を思いながら、毎回考えさせられることばかりで頭が爆発しそうです。それだけ沢山の情報を丁寧な説明とともに提供して下さる対本先生には本当に頭が下がります。

畏れ多い方っていらっしゃるもんですねぇ。

な〜んて、すぐに言葉を軽くしてしまうのは私の悪いクセですが、それでも「対本先生はほんとすごいから!」とアーナンダでもヨハネでも何でもいいから叫びたい病のほぐほぐうさぎでございます。

「なかなかいい感じの天才さん発見装置を搭載してるおかげで、なんもない田舎のおばさんだけど面白い人を見つけて面白く生きてる」と自己分析してまして、対本先生は同じ市内にいらっしゃる「ザ.インスピレーション✨」という感じです。ありがたやありがたや🙏続けて下さる限り這ってでも通いたいものです。私の思いがいつか以心伝心してくださったら、今生思いのこすところナシ…ですね。わっはっは😆伝わらなくても小さく楽しく生きてゆきましょう。色々書いてたら大体しあわせなんですよねぇ…。

さて冒頭のテーマ「語らざれば愁い無きに似たり」ですが、対本先生が患者さんやご家族とのコミュニケーションを通じて感じたことを凝縮してくださった言葉なのかなと思います。

この夏に三回忌を迎える母は、脳卒中で倒れて3日後に他界したのですが、その間に医師の言葉を聞きながら回復の見込みは相当難しいだろうという諦めに近い感情を心に留めながら、少し足が地につかないような全てが空回りしているような、目の前が真っ暗というよりは寧ろ真っ白なのではないだろうかという、この植物状態で眠る母の状況はいつまで続くのだろうと悲しみの感情すら枯渇してしまったような空白の時間を過ごしていた頃に、心拍や呼吸やお別れの時が来たのだと告げなきゃという虫の知らせを感じて父と兄を起こしに行って、約30分後に母は他界しました。

もっとわんわん泣くものだろうと思いながら、葬式を終えるまでしっかり泣くこともできなかったので、おそらく自分の中で堅い蓋のようなものをしたまま数日過ごしたのだろうと思います。サナギがサナギの中で死んでしまったような。

今も時々ふと襲ってくる悲しみに対して、簡単に「大丈夫だよ!」な〜んて言われたら怒りの感情すら湧きそうだし、「わたしもよ」と同情されても「同じじゃねーよっ!今だけは一緒にすんな〜!」と私の中のヤンキーさんが怒りそうなので、やはりひと様にかける言葉は慎重にしないとと改めて思います。そう思うと「そっとしておいてくれ」というそっとの距離感の中でできる小さなアクションって難しいですね。

この、言葉にならない言葉の部分を白隠慧鶴さんが三界無法という句で見事に表現してくださってます。李白の静夜思みたいな水面が鏡のようになってる感覚を想起させます。うーん、自分の表現力がもどかしいわい…。こういう時に言葉の限界を自分の中に感じます。

漢文は色々な言葉や想いが凝縮されていて、句の解説を聞いて思わず号泣。参ったな〜

語らざるは愁い無きに似たりというこの句を通じた良寛さんの解説を聞きながら、言葉という表層的に見えるものを通じて、どこまで心の深い部分に届けられるかが人生の醍醐味かもしれないなあと思いながら、日々ものを書き、小さく走りを通じてコーチさせてもらってます。言葉という形なきものに関しては「はじめに言(ことば)ありき…」というヨハネ福音書1章の言葉を拠り所にして生きさせてもらってます。言わなきゃはじまらんもんね…と。

芥川龍之介さんも羅生門の本でこの語らざればの句を載せてます。

個人的には村上春樹さんの「ノルウェイの森」の冒頭部分がこの語らざればを見事に表現していると感じます。

僕は頭がはりさけてしまわないように身をかがめて両手で顔を覆い、そのままじっとしていた。やがてドイツ人のスチュワーデスがやってきて、気分が悪いのかと英語で訊いた。大丈夫、少し目まいがしただけだと僕は答えた。(ノルウェイの森冒頭)手元に本がなく、ネットからの引用でごめんなさい。

小学生の頃、朝学校に行く時間にズームイン朝でいつもノルウェイの森を宣伝していて、「ま〜ったく、この会社はこれしか売るもんがないのかなぁ」な〜んてぼんやり思ってましたが、この人最初の部分で全部持ってっちゃってる春樹さんごめんなさい!と、少し大きくなってから読んで謝りたくなったものです。

大幅に脱線したついでに、その後春樹さんと河合隼雄さんの対談本を読んで、「この人達は一体何なんだわかりやすいこと言ってるのに底知れないんだよっ!」と感じて、大学の授業でユングの話をぼんやり聞きながら外を眺めていましたら、河合隼雄さんから京大でユングの授業を受けて、卒論までユングを選ばれた対本先生が巡り巡ってシャケのように目の前現れてくださり、人生ってやっぱり何とも言えない妙味があるもんだと感じます。先生、シャケなんて書いてごめんなさい🙏

この深層心理という名の深い海をザブザブ泳げたら人生豊かで楽しいだろうなぁと思い、浅い海でウミガメのように遊んでいます。もとい、仕事しています。(汗…)

気持ちが沈む梅雨時は、石でも編もうと今朝は庭園水晶を編みました。ちょっとは仕事もしないと…。なに屋さんかわからないと怒られそうですが、ちょっと器用なもみほぐし屋さんです。生きるのは不器用です。

結婚式の時に牧師さんがから聞く「病めるときも」の病める時に後悔が少ないように家族や大切な人との関わりを紡いでゆきたいものです。

色々書きたくて幕の内弁当みたいになってしまいましたかねぇ。読みにくく感じたらごめんなさい。自分の書きたいことを熟成させずに書き落としたことにもお詫びしつつ、感想とさせていただきます。

来月の健康講座は7/24(水)14時〜、大館記念病院4Fにて。ぎっしりな内容で1時間盛りだくさんです。

首都圏の方は7/20(土)13:30-15:30に中野サンプラザにて対本先生の講座を発見しましたが、詳しくは日本仏教鑽仰会のHPをご覧になってください。うーん、東京に住んでたら住んでた場所から10分だったのに、遠くなったな〜…。ネルケ無方さんの講座も気になってましたが、一つの真理に気づいて言葉にしてその後宗教になってるものを伝えてくださる方も、やはり尊いものですよ。

と、しみじみしながら失礼します。