私の女子大時代はおそらく相当浮いてました。

模試唯一のA判定だし、ここに行く!と決めたものの、学校はどうやら横浜にあるらしい、程度にしか調べておらず、世間の印象同様「なんかお嬢様っぽい(+都会的)な人がいそう」程度のイメージしか無かったので、女子が集団でいる環境に免疫が無さすぎて、入学早々「無理そう😑」と思っていました。実際そんなに馴染めてませんでした。授業終えたら40キロ離れた渋谷まで電車に乗って、走りに行き、大学内でのサークルにも所属しなかったので仕方がないことです。対個人で話せる人が何人かいたのが救いでした。

あ〜、体育系の学科に行けたら人生違ったかな〜と、古事記の授業が子守唄に聞こえたり、さして仲良くもない知人の彼氏のノロケを聞いてても「んで、だから何?」と心の中でつぶやいて、まっすぐ祝福できるわけでもなく、電車に揺られて生活を回すって結構大変だな〜と天を仰いでました。まあ、ノロケの内容に免疫が無かったというか、2人の彼氏にバレないようによろしくやってます…とか、わざわざ人に言わなくても良さそうなことを聞いて、竹内まりやの歌詞的な人が本当にいるんだ…という田舎っぺの私の驚きが大半でございます😅

上京した救いは、恋人と呼べる人ができたことくらいでしょうか。自分もフワフワとうわつきながらも、どこに根を張ればよいのか彷徨っていた気がします。

卒業してから気づいたことは、数多くのお嬢様の中にいさせてもらっておいてナンですが、自分に金銭的なセレブ思考が薄かったことに気づきました。なんか憧れもあって受験したとはいえ。

「高級ブランドがいかに私にとって大事か」を語る人を眺めて、「それほどブランドにこだわる理由は何?」と、相当冷めた意識を抱いていたので、あ〜私のことこの人嫌いだろうなと心の中でヒシヒシと感じながらも、私も当時は何かブランドを持ってなきゃいけない気にはなっていたので、気持ちと実態がかみ合わない違和感を抱かれてたと思います。一生懸命働いて持ってるという感じがしなかったのも拒否反応が出たのかもしれません。

私はこれを持ってるのが普通だから(彼氏か親に買ってもらいました)みたいな辺りに「だから何?」と、嫉妬とも少し違うのですが、モノを持ってる自分でしか表現しようとしないのかみたいなフラストレーションを感じていたのかもしれません。もっと深く付き合えば、本音は別のところにあるかもしれませんが、まあ表面的な部分での感想です。

ブランドは作り手の愛あっての品だと今は理解できるので敬意を払いますが、ランドセルかよ!と言いたくなるくらい皆当たり前のようにヴィトンやプラダを身につけてるお嬢様たちを当時眺めて、「ああ、私には全く似合わないけど叔母さんがくれたことだし、このヴィトンを使おう」とか、「両ききの人って特集でテレビに出たらFENDIのバッグもらっちゃったけど、早速使わせてもらおう」という感じで、ブランドバッグを持て余してました。本当に似合ってない人ナンバーワンだったと思います。欲しくて働いたわけでもなく、強く願ったわけでもなく、まさにあり合わせのブランド品。猫に小判

人は皆しるしを欲しがると、マタイの福音書にもありますが、やはり聖書って言い得て妙という言葉だらけで時々おそろしくなります。

数日前に自己顕示欲について詩を書きましたが、わたしも例にもれずしるしを欲しがりながら生きています。

そのしるしが何かと問われたら、お金やブランド品よりも才能という形のないものをしるしにしたい気持ちが強烈で、自分で泣きたくなる時があります。才能という形のないものは非常に脆く儚いものなので、自分であると信じて取り組まないと誰にも気づかれることがないまま人生を終えてしまうので、その先の光の見えないトンネルを進むようなものだと思います。才能なんてないと思って諦めたり手放したり、手放しすぎて忘れかけたり、人生紆余曲折の中でそれでも諦めきれないものがあるって、なんてしつこいんだろう…と嘲笑したくなります。

まだまだどの道もゴールは遠いのですが、このどうしようもない欲を少しスッキリさせるには、手や足や頭を動かすしかないです。誰もが気軽に手に入るようなものは別に私じゃなくてもいいと思うんです。そこに努力と工夫を加えるのが人生の妙…なのかもしれないと最近思います。

ちょっと当初の落としどころから相当逸れるのですが、この才能とやらを追求するという実験に付き合ってくれてる陸上部の小学生が「や別に私そこまで目指してるわけじゃ」みたいな感じに見えた時に正直自分の中で何かが少し燃え尽きる音がして、「あ〜私なんで自分の子もいない部活でこんなに頑張っちゃってる人みたいになってるんだろ」と、厭世的な気持ち満点になってしまい、突き詰めると「栄光に向かって走らんか〜い!」とひと様に向かってイライラしてる自分に出会いました。すごいエゴですよね💧

このフラストレーションの根っこが、2週間も前の県大会にあることを今日気づきまして、よく言えば闘争本能、悪く言えばエゴだらけの自分を振り返って風呂で泣いたら少しだけスッキリしました。悔しがりすぎ…。

燃え尽きちゃうとコーチにまるで身が入りませんから、昨日は思い切って休みました。ちょうど雨だったので。

最初にゴールを設定したい自分のモチベーションを維持するためにも、休みは必要だったのかなぁと思います。あまり欲を人さまを振り回してはいけませんね〜。

あとちょうど2週間で私も久しぶりの大会です。

今シーズンは1度しか大会に出てませんが、同じくらいかそれ以上のパフォーマンスを出すために、心の中のノイズを減らしてすっきりした気持ちで臨みたいものです。毎日体重計とにらめっこして、我ながら呆れます。現在50キロ台になりました。前回の試合は51.5キロで臨んで、100mを走る自分の脚のむだ肉を写真で見て悲しくなったので、もも部分のスッキリを目指します。体重を落とすのは試合に現時点での最善を求めるための第一歩です。試合に対する意識に関しては、まだ私は甘っちょろいと思うので堂々と書いておきます。自分の貧乏性な部分が、「100mを走るのにうん千円も払ってるんだから、モト取れるようにちょっとは努力しやがれ!」と自分を追い込んでくれます。ああ、試合ってありがたい…🙏

また話を戻しますが、大学卒業時に「仙人になりたい」と書いた私が「お嬢様」と融合する日は来るんかいなと思いながらも、フェリス女学院で数少なく繋がってる方々にも相当呆れられてるとは思いながらも、なんでこんなこと書くかと言いますと、同じ感覚の人がきっといるかもしれないという微々たる光明を求めているのでしょう。but Im not the only one..って、色んな場面で言いたがりでごめんなさい。でも学校の精神や人からたくさんインスピレーションを受けて今があるので、入れてもらえて感謝しています。

引き続き淡々と仕事をしてゆきます。

仕事にしていることが、夢中になりすぎると時間がものすごい勢いで過ぎるのですが、走って書いて編んでみたいな日々が日常になってるってありがたいです。

もしお金がドーン!と入ったら、やっぱりブランドバッグよりも、インドにリュック背負って石買いに行っちゃうでしょうねぇ。編むための。

ほぐほぐうさぎの道は続く。といいなぁ。

今日はペンダントのしっぽの部分をあーだこーだと作成してました。まだまだ試作段階…。また市日の日にお日様の下で撮影したいものです。