午前来客、午後出張、着替えてそのまま陸上コーチ。理想的な一日でございます。
午前中のお客様に「あなたの前世は日本人じゃなさそう…」と言われてなるほどそうかも…とも思い、物質社会の現代について語られてて、おっしゃる通り…!と共感し、とにかくお客様との会話はどなたとでも楽しいです。気づきをいただけます。
スピリチュアルな感性の強い方が割とよくいらっしゃるのですが、わたしも霊感とも呼ばれるその感覚を非常に大切にして生きているので、お客様からは日々様々な視点を頂けます。
「あなたと話すとサードアイがむずむずする」というお客様からは、霊能力者から寿命を言われたのだけど、あなたもわかるの?…と聞かれ、「このままの感覚で過ごしたら、健康的に80歳は超えると思いますよ。」とざっくり答えたら、「あはは…。霊能力者さんと大体違わない」と笑ってたので、なるほど…と思いました。
霊能者さんは具体的な年齢まで言われたそうですが、私はそれは違うかなぁ…とも思います。
寿命を言われたら、そこに区切りができるので私は今の状態から察することしかできないし、もし見えたとしても言うべきではないのでは…?と思います。寿命は限りあるかもしれないけれど、運命はある程度変えられる…が持論。
寿命を正確に知りたい人にはいいかもしれませんが、あくまでも霊を見させていただくのは1人の小さな人間としてなので、神様のような詳細を語るべきではないのでは…なんて。まあ、霊能者との相性は確実にあるでしょうね。霊能者=万能…では決してない…と、わたしみたいな小市民は思います。それやっちゃうとヤバい宗教作っちゃうことになる。人間である以上、間違いは確実にある、という感覚を私個人は大切にしています。
自分が霊的なものに支えられて恵まれた今があって、霊という名の1人の人がドンと背中についているというよりも、水蒸気だったり気体みたいな感覚で備わっているような、そんな感じが私の見たり察したり対話するものです。自分が何かを学んでるというよりも、魂が騒ぐものをかき集めて個体として形成している感覚です。その霊的な支えの中でも大きな存在は確かにいますが…。私の場合は今は確実に母ですね。以前の私はもっとずっとおとなしい。母の社交性に今はかなり支えられています。
霊感を持ってる方はそれで霊能者的なお仕事をしているか、聖職者に就いてるので多くを語ることはあまりないと思います。
私はあくまで田舎の3児の子持ちのおばさんが語る感覚なので、おかしな奴だ…がまあ大半の意見かと思いますが、その感覚をふまえながら、この霊的感覚を無視すると自分がうまく回らなくなるので、時々息抜きに書いてます。
私の場合は、人様の怒りに近い強い念だったり、身体から魂が抜けてこの世から離れる感覚を割とキャッチしています。
沖縄に住んでた頃、東京のママ友にこの感覚を送った時は、後日「あなたは何を見ていたの?」と言われ、自分でも背筋が凍り、もうやらない方がいいのかな…と思いながらも、「この人に何か起こる前に、私が変な奴…で済むくらいなら、その石のようなものに躓かないように伝えるだけは伝えよう。」というスタンスで過ごしてます。このママの場合は伝えた日にパパの暴力があり、私は私で自分の見ている世界に非常に混乱し精神科にしばらく滞在してたので、コントロールできるまで…というか、ああそういう感じなのかと言葉に落とすまでは時間が必要でした。私の場合はスピリチュアルを大切にしながらも、普段の生活に感謝することでストレスの少ない日々を味わってます。
お節介おばさんで済むなら万々歳というか、何か起きて本当に大変なことにならなければ、自分がどう思われようがかまわない、という感じです。
母が他界する時も、「あ…」という言葉にならない時に家族を呼び、家族で囲んで見送り、今年も大切な方が旅立つ時にちょうど家に着いた瞬間に時間確認をしていたので、呼んでいるのか、呼ばれているのか、まあ両方かなと思いますが、偶然というか必然なのかも解釈は異なると思いますが、呼ばれていると思って信じて生きていると、自分であれこれ迷わなくて済むと知り、生かしてもらってる感覚で生きられます。
ご近所さんの他界も「あ…今何かあった!」という部分までは気づけましたが、誰が…まではわかりません。70億人以上いる人類で、全部わかっちゃったら、正直耐えきれなくなって正気では生きてゆけませんから、霊的感覚も見えてる範囲はあると思います。
この目に見えないものに対して、「あります」と自ら主張するのはナンセンスだと自覚しながらも、どうやら感じる人が少数派らしいなら、その少数派の感覚だけでも書いておこうというのがブログを書き続ける原動力です。本来は全ての人に備わっていると思います。
スピリチュアルを信じていない人に向けても、できる限り説得力を持って書けるものを書く、がテーマ。
私気づいたの、わかったの、こっちへ来て今ここ、ありのままでいいのよ…は今の時代かなり多数の人が書けると思うので、そのスピリチュアルはあえてしません。
正直私そのものはどう思われてもあまり気にしないというか、縁があれば仲良くなれるし、縁がなければそもそも来ないし、「自分の突き放し方がいいね」と以前シャンタンさんからお褒めの言葉をいただきましたが、自分を愛しながら、俯瞰して冷めて見ているのが私の個性だと思います。冷めた目線でどこまで書けるかが腕の見せどころじゃないかなぁ…。そしてこのさめた目の方で何かしら感じているのでしょう。
なので霊的な部分に関しては「あいつはインチキだ」と言われたところで痛くもかゆくもないし、「なんか本当に見てそう」と思っていただけたなら、ありがとうございますという感じで、あくまでも人間として関わりある方々とワイワイ楽しく生きながら人様を元気に励ましつつ自分の道を歩くことが私の使命なので、どう思われてもいいのよ~という重力を置かない無頼なところが気に入ってます。ブライアン里佳って名乗ろうかしら…と思ったくらいに(ブライアン→無頼やん…💧)
長くなりました。ここまでお付き合いくださりありがとうございます。
先天性か後天性か…という話もありますが、後天性と思っていながらも、よく考えたら3歳くらいの頃から「神さま今日もありがとう🙏」と言って眠ってたので、割と早い頃にはこの感覚があって、中学生くらいまでははっきり残ってて、薄れて生きてたけど、思い出しながら生きている…という感じです。私の場合、この部分を忘れちゃうと、うまく回らなくなるので、自転車の車輪の1つという感じです🚴♂️
消えちゃうかもしれないし、泡のようなものだとはわかりつつも、それは手のひらの雪の如く私には儚き確かな現象❄️
絵にすると下のような、非常に抽象的な感じになります。私の場合はヒト型ではありませぬ。
ではではまた。