平日にはとても書けないお題を選んでしまいました。
私はクリスチャンのはしくれとして、神さまを信じてますが、何年もかけて何度も聖書を読んで、恐ろしくなって聖書をぶん投げたことがあります。そのまま沖縄県警の船で運ばれ、精神科の保護室にしばらく滞在してました。本を読んで発狂したのは聖書以外にはありませんので、人生で一番読んで、一番怖れて一番気に入っている本です。無人島に持ってくなら、これと決めてます。
仕事に宗教を絡めたくないので、あまり教会にも行ってないくせにクリスチャンと名乗って、敬虔なクリスチャンから見たら迷惑な人だろうな…と笑ってください。クリスチャンという言葉に抵抗があれば、聖書好きなおばさん、くらいでいいです。クリスマスが近いことに免じてお許しください🙏
さて、その前置きを基に本題です。
以前神さまと悪魔は双子のようなもんだと聞いた時に、何それ?とすぐには腑に落ちなかったのですが、言葉を二極化したがる人間の作った大きな表裏の概念だと捉えてます。光と闇、善と悪、みたいな。
神さまとか天使に見えても、見方によっては大悪魔。
例えばですが、羽生結弦さんなんて人間性も含めて神さま扱いされちゃう素晴らしいアスリートですが、同じアイスリンクで競わなきゃいけない選手達にとっては脅威で、どう頑張っても越えられない壁のように見える悪魔なのかもしれません。
橋本環奈さんだって、可愛すぎて天使な外見に拝みたくなっちゃっても、テレビで隣同士に映る共演者の同世代の子からみたら「あんたは何も悪いことしてないけどさ、ちょっと隣に座らないでよ…」って気持ちになるかもしれません。自分が劣等感抱いちゃうから。
人間も過去の過去を辿れば野生で生存してたので、この人がいたら獲物全部持ってかれちゃう…という人に関しては警戒したり畏れたりするのは自然な現象かなと思います。
たくさん獲物を持って来てくれる仲間であれば心強いし、領地の境目あたりの別の種族であれば途端に恐ろしい存在になる。こんな感覚から発展して争いが起こるとしたら、悲しいことですね。
1つの現象も、どこの立場から見るかで神さまにも悪魔にも映るものだと感じています。良いも悪いもひっくるめて、真理じゃないかな〜。神さまは良い、だけでまとめようとすると、論理的に納得できなくなる。良いし凄いしこわいしとんでもない存在。
私は割と本音の本音を書きたいので、同じく文章で人を元気づけたい方にとってはヤな奴かもしれませんし、でもあなたはあなた、私は私と個人差って大きいので、全く同じことを書くことはおそらくないと思ってます。
もし似ているように感じる文章の方がいたら、その見つめているものが近いのでしょう。同志みたいなもんじゃないかな…。
そして今はきっとそれぞれが見た真理なり真実を書きやすい時代に突入してきたような気がします。子ども達を見ていても、私が中学の頃に感じたような閉塞感を感じなくてもよいようになってきてる気がします。
中学の頃は表面的には「優等生」をしてましたが、内側には結構強烈な「どヤンキー」が入ってて、それは「なんとか優秀な学年としてまとめるぞ!」みたいな想いが強すぎる先生に対して、心の中でそれは違うだろう?とか色々反発してました。担任じゃなくて良かったなと思うんですが、みんなに「いいこ」をさせようとすると、生徒は途端に大人しくなって多様性に欠けると感じます。
組織の通りを良くするには必要なのかもしれませんが、統制を強める力が強すぎると、ついて行けない子が苦しくなる。みんな別々の人生なのに。
塩谷直也さんという牧師さんのコラムが興味深かったのですが、「遅刻が重なったものは不合格」と宣言した教師がいたとします。
寝坊する人を罰し、定刻に来る生徒を評価する先生は真面目な生徒には人気。
一方、寝坊する生徒に対して「なぜ遅刻するのか…」をよく考えて、遅刻が悪いとわかっちゃいるが、それでも遅刻する子を助けたい。…という思いで動く先生は、遅刻常習者には救いだ、という旨を書いてました。
前者の先生は善人の、後者の先生は悪人にとっての救いで、聖書は後者の救いを書いてると仰ってて、私も同感だという思いで文章を書いてます。
私はいい人だからハレルヤやっほー❤️だったら、正直「そりゃよござんしたね」でおしまいというか、…で、それが常態というわけではないでしょう?色々あったあなたのストーリーが聞きたいわ。…と私の中でつっこむ人が出てきて、現在進行形でもがいて今を書くのが私には一番人間くさくて気に入ってます。
失敗をし、むしろ失敗だらけで、失敗から何を掴みどうシェアするか。
安全な橋を歩いてる人から見たら危なかっしく、見なくてもいい奴を見てる気分にさせてるだろうなと思います。
私はしばらく安全な正社員として、当たり障りない空気みたいな人だったので、こんなにうるせぇ奴が近くにいたらまっぴらごめんの勘弁じゃ…と思います。
人によって、いい人にもヤな人にも見えるのが、わたし。それは昔からそんなに変わらない。
善良な人として生きるのを選ばず、「作家として文章を書くなら地獄に飛び込むつもりで書け」と、とある方が書いてましたが、そんな気持ちで書いてます。中途半端なのは誰も幸せにしないから、書くならとことん書けるまで…と思ってます。まだ作家でも何でもないですが、心意気はこの言葉にあるかな…。
元々嫌われて常態、好かれたら奇跡だと思えば怖いものなんてそんなにないですよ。
私の日々書く文章で、「なんだこいつは…」と一瞬でもウッ…と思う方がいれば、もう万々歳なんです。一番悲しいのは無関心と言いますから。
私を支える背景にある、聖書というぶん投げちゃうくらいの本のパワーが1ミリでも伝わったらラッキー❤️くらいの気分です。
…あ。補足ですが、仕事しながら「教会に行きましょうよ!」みたいな勧誘はしませんのでご安心ください😅信仰は人それぞれ。野球や陸上でシーズン中は教会全然行けませんし。
7年前に脳梗塞で一瞬ですが半身不随になって、あ…私死ぬかもと思って、退院後「今なら神さまの話を聞けるかも…」と自発的に教会に足を運んだのがそもそもの始まりですし、学生時代の卒論は何とびっくりテーマは「無神論」ですから…。
我ながら極端な人生だと笑ってます。東洋と西洋を行ったりきたり。
なんだか壮大なテーマを選んでしまいましたが、要するに悪魔と思う感覚って、畏れや恐怖から湧き出す感覚で、外ではなく内側から聞こえる心の声ではなかろうか、という所感でございます。
世の中を形成している説明のつかない恐れももちろんあるとは思いますが。
精神科の保護室で陽気に歌ってた私にとって、精神を何かしらの理由で病んでしまったり生きにくい人は仲間というか、ぜひお店に来てね❤️という素晴らしいお客様で、なーんにもない保護室から数年後に元気に起業した自分の姿から何かしら元気になる部分があれば嬉しいと思います。病院ではたくさんの方と毎日楽しく過ごせて、精神を病んだからって悪いわけじゃないと感じます。そういう人にこそ、ほぐほぐうさぎですよ🐇お仕事大変なの〜…ってプチ疲れの人も、人生大変なの〜.. 😭って激疲れな人も歓迎しますよ❤️
先日遊びに来た学生時代の友人が、「みんなが持ってるものなーんだ?」という息子のなぞなぞに対して「え…。心の闇?」とサラッと答えてて爆笑してましたが、この闇だの悪魔だのの感覚も逃げずに見つめると新しい発見があるかもしれませんよ。ユングの言う潜在意識の図を見て、ユングさんはすごいもの見てるんだろうけど意味不明…と学生時代は思ってましたが、この辺りを私なりに解釈して文章書いてます。やはり立場は田舎のおばさんとして。
ああ、こんな文章書いてまたおかしな人だと笑われてしまうかもしれませんね。
精神科でも家でも私は全く変わらず、下手だけど掃除をして、瞑想して祈って、第九を歌ってご機嫌に過ごしてたので、多分どこに行っても出来る限り変わらず過ごしたいものよね…と思う次第です。気温や匂いなど生理的に過酷な環境でなければ、大体変わらないです。
地位ある人も名もなき人も、老いも若きも可能な限りで敬意を払いながら、淡々と生きる。
場所や人や周りの環境で、大きく自分を変えない。
その軸さえあまりブレなければ、案外ラクに生きられる気がします。もちろん人間だから、色々ありますけどね。応援したい人にはワーッ⭐️となっちゃう。
この人にはこう、みたいな温度差ができすぎると、途端に裏と表が激しい人になる(…ように見える。)
これはSNSや現実で人間観察しながらの所感です。
ではでは、非常に長くなりましたが、お読みくださりありがとうございました。
引き続きよい休日をお過ごしください🍀
写真はミシェルさんという、大好きな方が下さった初めての聖書。
その後中国語、英語、文語、新改訳…と何冊も引き寄せ、比較し、言葉の放つ美しさを味わってます。「見なさい」がLookなのかWatchなのかSeeなのかを読むのが、多言語聖書解釈の面白いところです。聖書って何が楽しいの?という方には、佐藤優さんの新約聖書(文春新書)をおすすめします。佐藤優さんは私が言うまでもなく、時事、情勢はじめ様々な分野を深く突く興味深い本をたくさん書かれてますが、この方の聖書解釈とあたたかさに、まさに名前通りの優を感じます。読みながら泣いてました。いきなり聖書だと、空から魚やパン降ってきちゃうよくわからない本だよねー😅ってなっちゃいます🍞🐟佐藤優さんもロシア語はじめ、多言語で解釈なさってて、同志社で神学を学ばれた真髄(神髄かな…)が詰まってます。
東京の中華教会で洗礼を受けましたが、私の中では最大級に人生が変わったのは聖書かな…と感じます。今はドイツにいる牧師さんとれいこさんには一生頭が上がらないなぁ。