クリスマスなので久しぶりに礼拝に行きました。
おそらく6~7年ぶりに会う牧師さんのところへ。
大館でもお誘いいただいたのですが、今日はO牧師に会おうと車で約40分走りました。
変わらぬ穏やかさでホッとしました。
中華教会での洗礼前に「日本語の教会ってどんな感じ?」とフラッと礼拝に参加し、ご縁が続いて沖縄でも手紙のやり取りはあったのですが、秋田に来てから行くきっかけが掴めず、クリスマスを機に行ってみた次第です。起業した旨も伝えていたのでありがたいことに覚えててくれました。
長老さんも変わらず元気。いつまでも元気でいてほしいです。
息子らも礼拝を聞いて、何か響くものがあればいいなと思います。強制する気はないんですけどね…。不器用な私なりの教育です。
東京、愛知、ニューカレドニア、沖縄、秋田と様々な教会を見て思うことは、最終的には人のあたたかさを感じられるかどうかが鍵だと感じます。
人間は弱いですから、拒否だったり排他的と感じると行きたくなくなるし、組織そのものも内輪になってゆくのでは…と感じます。
それは教会に限らず、会社も学校も地域もすべて、いかに新しいものに対して受け容れる器があるかを人は見ていると思ってます。他の人はともかく、私はそこを重視。馴染む努力ももちろん大切とは思いますが、キャパシティは人それぞれ。
もちろん古き良き伝統を守るも大事ですが、守るだけだと時代に取り残されると経営者としては思います。
常に新しい空気を吸う努力をし続けられるか…と神さまに問われたような礼拝でした。
小さな罪だらけの人間として生まれたからには、その弱さを見続けながら生ききる覚悟を持ちたいものです。まだまだ弱っちいですけどね。
今日はヨハネの福音書の話を聞きました。ヨハネの福音書は「はじめにことばがあった」からはじまる書で、私は今年はこの言葉をかなり重視して生きてました。いわゆる常識の範囲をまるで無視して言葉を追い求め続けた1年だったように思います。降ってくる言葉を形に整えて、言葉と生活や性格の誤差を少なくする努力をした年といえばいいのでしょうか…。
大好きなコヘレトの言葉には「言葉を少なくせよ」とありますから、聖書のどの言葉に重きを置いて生活するかによって、見る景色は大きく変わるとは思います。
言葉を少なく、慎んだ方が余計な火種をまかなくて良いという意味では言葉は少なくありたいですが、「私はこんな人間でここ大切にしてま~す」…なんて黙ってたら誰も気づいてくれないし、起業したからには「誰だこいつ?」くらいの関心を持っていただけたら嬉しいなという気持ちで日々ブログを書いてます。お読みくださる方々には本当に感謝します。
脱線してしまいました。
日本は「そもそも宗教とは、信仰とは」という部分を話しあう機会が少ないので、「クリスチャン」=何だかあやしい、と構えてしまう感覚は少し残念だなと思いますが、まあ私も相当あやしいかもしれないし、とてもじゃないけどおそれ多くて「聖なる神の子です」なんて言えないから、罪だらけの私が語ることがあるとすれば、心が疲れた時は心療内科でもいいけど、牧師さんの話も心に沁みますよ…という感じでしょうか。牧師さんの話をきっかけに、聖書を手にとるチャンスがありましたら、1行でもそれは手にとった方への必要なメッセージが込められいると信じています。
いつか日曜に気が向いたら礼拝に足を運んでみてくださいね。真っ当なところは、お寺の掲示板みたいに今日のお題など書いてあって、割とオープンなはずです。大体10時半頃からはじまる所が多いです。健全なプロテスタント教会であれば、いきなり勧誘…は無いのでご安心を。
プロテスタント→牧師さん
カトリック→神父さんがお話ししてくださいます。
では良いクリスマスをお過ごしください🎄
東京の牧師さんからカレンダーいただいたり、 ↑
息子らとローソク眺めて今日はゆっくり過ごしました。
よいクリスマスをお迎えください🎄